よもやま茶飯事

心に浮かんだことを書き綴ります

枕草子・第6段 「大進生昌が家に」 その1

清少納言が仕える中宮・定子は出産のため、住まいを平生昌(なりまさ)の屋敷に移されます。清少納言も同行しますが、到着するや否や、生昌との間で丁々発止のやりとりが繰り広げられます。この段は長いため3回に分けてお送りします。

 

第6段 大進生昌が家に 1/3

 

大進(だいじん)生昌(なりまさ)が家に
大進(※1)の生昌(※2)の屋敷に

※1 中宮職の役職名で三等官のこと
※2 平生昌は平氏の流れを汲む公家。このお話の当時は50歳前後と言われています。生昌は定子に仕える立場でありながら、定子に代わり、自らの娘・彰子を中宮にしようと画策する藤原道長にすり寄る曲者であったとする説があります。

 

宮の出(い)でさせ給うに 
中宮さまがお出ましあそばす折(※)

※ 中宮・定子は、生家・二条邸が火災に見舞われたため、代わりに平生昌の屋敷に移られます。中宮、23歳の時です。

 

東の門(かど)は四足(よつあし)になして
東の門は新しく四足門(※)にされ

※ 親柱に4本の控柱のある門のこと

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https://3dkyoto.blog.fc2.com/blog-entry-96.html よりお借りしました。

四足門は大臣以上の屋敷に使われたが、今回、中宮が移られるので特別に改築した。しかし、史実に近いとされる藤原実資の『小右記』(しょうゆうき)では、簡素な「板屋門」であったと記され、実資は中宮の輿が板屋門から出入りするなどは前代未聞の出来事と述べています。

 

それより御輿(みこし)は入らせ給う
そこから、中宮さまの御輿(※)はお入りあそばされる

※人がかつぐ乗り物で身分の高い方が使う。清少納言たちは別の牛車に乗っていました。

 

北の門より女房の車どもも
北の門から私たち女房の牛車も

 

まだ陣のいねば 入りなむと思いて
まだ詰所に警護の武士がいないので(※)、入れるでしょうと思って

※ 中宮が住居を移るのに、警備の者がいないのは不自然です。中宮の移動は「行啓(ぎょうけい)」に当たり、上卿(しょうけい)という公卿の代表がお供をするのが決まりでした。しかし、この時は誰も上卿を務めようとしませんでした。身分の低い三等官の屋敷に住まいを移すことや、「板屋門」の件、警備の不手際などから、当時の定子を取り巻く状況の厳しさが読み取れます。


頭(かしら)つき わろき人も いたうもつくろわず
髪形の整っていない女房も、たいした手入れもせずに

 

寄せて下(お)るべきものと 思いあなずづりたるに
牛車を建物に寄せて降りるはずだと、思ってのん気に構えていたところ

 

檳樃(びんろう)毛の車などは 門小さければ さばかり え入らねば
檳樃毛の車(※)などは、門が小さくて、そのまま入ることができない

※ 蒲葵(びろう、ヤシ科の常緑高木)の葉を細く裂き、白く漂白したものを貼った牛車

 

例の筵道(えんどう)敷きて下るるに いと憎く
例のようにムシロを敷いた道に降りるハメになったのは、とても憎らしく

 

腹立たしけれども いかがはせむ
腹立たしいけれども、どうしようもない

 

殿上人(てんじょうびと) 地下(じげ)なるも
殿上人(※1)や地下(※2)の連中が
※1 清涼殿に登ることが許された蔵人所の役人
※2 清涼殿には登れない蔵人より下の役人

 

陣に立ち添いて 見たるもいとねたし
詰所に立ち並んでこちらを見ているのも、いまいましい

 

御前(おまえ)に参りて ありつるよう啓すれば
中宮さまの御前に参上して、このありさまを申し上げると

 

「ここにても 人は見るまじうやは
中宮さまは「この部屋にいても、人は見ないことはありませんよ

 

などかは さしも うち解けつる」と笑わせ給う
どうしてそんなに気を許したのですか」とお笑いになられる

 

「されど それは目馴れてはべれば 
私が「されど、この部屋にいるような人たちはみんな見慣れていますから

 

よく仕立ててはべらむにしもこそ 驚く人も侍らめ
立派に着飾っていると、かえって驚く人もおりますでしょう

 

さても かばかりなる家に 車入らぬ門やはある
それにしても、これほどの人の屋敷に、牛車の入れない門があるなんて

 

見えば 笑わむ」など言うほどにしも
生昌が来たら、笑ってやりましょう」などと、他の女房たちに言っていると

 

「これ参らせ給え」とて 御硯(おんすずり)など差し入る
生昌が「これを持って参りました」と硯などを御簾の中に差し入れる

 

「いで いとわろくこそおはしけれ
私が「まあ、あなたはとてもひどいお方ですね

 

など その門 はたせばくは造りて 住み給いける」と言えば
どうして、あの門を狭く造って、住んでおられるのです」と言えば

 

笑いて 「家のほど 身のほどに合わせて侍るなり」と いらう
生昌は笑って、「屋敷は身の程に合わせております」と、応じた

 

「されど門の限りを高う造る人もありけるは」と言えば
私が「されど門だけを高く造った人もありましたよ」と言えば

 

「あな恐ろし」と驚きて
生昌は「これは恐れ入りました」と驚いて

 

「それは于定国(うていこく)が事にこそ侍るなれ
「それは于定国の故事(※)ではございませんか

※ 前漢の于定国(うていこく)という人物のこと。彼の父親・于公は公平な裁判を行い、その徳により子孫に出世する者が出ることを予想し、家の門を高く造った。その子・于定国は前漢の丞相となった

 

古き進士(しんじ)などに侍べらずは
年功を積んだ学問に通じた者でございませんと

 

うけたまわり知るべきにも侍らざりけり
承っても知る由もないお話ですが

 

たまたまこの道にまかり入りにければ
私は、たまたまこの道に通じておりますれば

 

かうだに わきまえ知られはべる」と言う
せめてこのようなことだけは、わきまえることができます」などと言う

 

「その御道も かしこからざめり
私が「あなたのおっしゃる道も、立派なものではないようね

 

筵道(えんどう)敷きたれど みな落ち入り 騒ぎつるは」と言えば
ムシロを敷いた道なんて、みんな落ちて大変だったのですよ」と言えば

 

「雨の降りはべりつれば さも侍りつらむ
生昌は「雨が降りましたから、おっしゃる通りかもしれません

 

よしよし また仰せられかくる事もぞ侍る
まあまあ、これ以上いると、またあなた様から仰せつかることがありそうです

 

まかり立ちなむ」とて 去ぬ
退出することにいたしましょう」と言って、立ち去ってしまった

 

「何事ぞ 生昌がいみじう おぢつる」と問わせたまう
中宮さまが「何があったのですか、生昌があんなに怖気づいているなんて」とお尋ねになられる

 

「あらず 車の入りはべらざりつる事 言いはべりつる」と 申して下りたり
私は「なんでもありません。牛車の入らなかったのを言ったのです」と、申し上げて、他の女房たちと控えの部屋に下がってしまった


<三巻本・枕草子 第6段 その1・了>


<第6段 その2は↓>

yomoyamasahanji.hatenablog.com

 

【おまけ】
牛車が入れずに人前で車から降りるはめになった清少納言たち。門の狭い屋敷に住んでいる生昌をとっちめてやろうと、于定国の故事の話を持ち出します。生昌は、自分もその道に通じているので、その事は知っていますと切り返します。

すると清少納言は、あなたの通じている道なんてムシロを敷いた道じゃありませんかとやり返します。生昌は、これ以上話していると、もっとひどい目に会いそうなので、あわてて退散してしまいます。

 


【おまけのおまけ】
この頃の中宮・定子を取り巻く状況は厳しいものでした。父親であり、後ろ盾でもあった摂政・関白の藤原道隆が亡くなり、その後の権力争いの最中、兄の伊周(これちか)は女性を巡る疑いから前の天皇を襲撃するというスキャンダルを起こし(長徳の変)失脚、大宰府へ追放されます。定子は伊周の逮捕の場に立ち合ったことでショックを受け、自ら髪を切り出家の身となります。

政治権力は藤原道隆の中関白家から、弟の藤原道長に移りつつあり、道長は定子に代わり自らの娘・彰子を中宮に据えようと画策していました。この日も、道長は貴族たちを集め、宇治で遊覧旅行を催し、行啓の邪魔をしようと企てます。藤原実資は「小右記」で、道長の振舞いを「行啓の事を妨ぐるに似たり」と批判しています。多くの貴族たちは政治情勢を見極めるため、定子との距離を取り始めていました。

清少納言も当然そうした事情は知っており、そのため道長に通じている生昌に対して強烈な攻撃を加えたのでしょう。しかし、清少納言は、そうした背景には一切触れず、以後は定子の人柄の素晴らしさに焦点が当たるように物語を書き進めます。