よもやま茶飯事

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枕草子・第7段 上に候ふ御猫は その1

枕草子・第7段はペットを巡るお話。猫は平安時代にペットとして飼われていましたが、犬はペットというより狩猟のために飼われていたようです。そんな犬と猫との違いがわかるプロローグで物語は始まります。

 

第7段 上に候ふ御猫は 1/2


上に候ふ御猫は かうぶりにて
一条天皇のおそばに仕える猫は、冠(五位の位)をいただいて

 

命婦(みょうぶ)のおとど とて
命婦(みょうぶ)のおとど(※)という愛称で

命婦は五位以上の女官の呼び名、「おとど」は婦人の敬称

 

いみじうおかしければ かしづかせ給うが
とても可愛くて、大切にお世話をされていたが

 

端に出(い)でて臥したるに 乳母(めのと)の馬命婦(むまのみょうぶ)
縁先に出て横になっているのを、猫の世話係りの馬命婦

 

「あな正無(まさな)や 入りたまえ」と呼ぶに 
「まあ、行儀の悪いこと、内へお入りなさい」と呼びかけるが猫は動こうとしない

 

日の差し入りたるに 眠ぶりていたるを脅すとて
命婦は日の差し入る所で、眠ったままの猫を脅かそうとして

 

「翁(おきな)まろ いづら 命婦(みょうぶ)のおとど食え」と言うに
「(犬の)翁まろ(※)、さあ、猫の命婦(みょうぶ)のおとどに噛み付きなさい」と言うと

※宮中で飼われていた犬の名前

 

まことかとて 痴(し)れ者は走りかかりたれば
真に受けて、愚か者の犬は猫に向かって走って行けば

 

怯えまどいて 御簾(みす)の内へ入りぬ
猫は怯えうろたえて、御簾(みす)の内へ入ってしまった

 

朝餉(あさがれい)の御前に 上おはしますに
帝が簡単な食事をされる部屋に、一条天皇はおられ

 

御覧じて いみじう驚かせたまう
この光景をご覧になられ、たいそう驚かれた

 

猫を御懐(ふところ)に入れさせたまいて(※)
帝は猫を懐にお入れになり

※文章で用いられる「せたまふ」「させたまふ」は最高の敬語。そのため主語は天皇か、それに準ずるくらいの身分の高い人に限られる

 

おのこども召せば 蔵人(※)忠隆 なりなか 参りたれば
男どもを召集なされ、蔵人の忠隆と、なりなか(という者)が参上した

蔵人所の役人で、機密の文書や訴訟などを扱った

 

「この翁まろ 打ちてうじて 犬島へつかわせ ただ今」と
帝は「この犬の翁まろを、打ち懲らしめて、野犬を収容する島流しにせよ、今すぐに」と

 

仰せらるれば 集まり狩り騒ぐ
仰せになるので、皆が集まり犬の捕獲のため騒ぎ追い立てる

 

命婦(むまのみょうぶ)も さいなみて
命婦も、責任を問われ

 

「乳母(めのと)代えてむ いと後ろめたし」と仰せらるれば
帝は「世話係りを代えよう、とても気がかりだ」と仰せになれば

 

御前(おまえ)にも出(い)でず
命婦は恐縮して帝の御前に出ることもない

 

犬は狩り出(い)でて 滝口などして 追いつかわしつ
犬は狩り立てられ、滝口の武士(※)などによって追放されてしまった

※宮中の警護にあたる武士。詰め所が水の流れ落ちる場所にあったことから、こう呼ばれた

 

「あわれ いみじう ゆるぎ歩(あり)きつるをものを
周囲の者たちは「なんとまあ、犬の翁まろはこれまで、大層ゆったりと歩き回っていたものを

 

三月三日 頭弁(とうのべん)の 柳かづらせさせ
3月3日、藤原行成(※)さまが、柳の枝で作った髪飾りを犬に載せさせて

一条天皇の側近であった有力貴族の一人。能書家としても知られ、小野道風藤原佐理と共に三蹟と呼ばれる。枕草子でもしばしば登場し、清少納言と親しい関係にあった。

 

桃の花を挿頭(かざし)にささせ 桜腰にさしなどして 歩(あり)かせたまいし折
桃の花をかんざしにして、桜の枝を腰に挿させるなどして、歩かせておられました折は

 

かかる目見むとは 思はざりけむ」など あわれがる
このような目に合うとは、思わなかっただろう」と、気の毒がる

 

「おものの折は 必ず向いさぶらうに
「皇后さまの食事の際は、必ず向かい側に控えていたのに

 

さうざうしうこそあれ」など言いて 三四日になりつる昼つ方
いなくなってしまうのは淋しいもの」などと言って、3~4日経った昼の頃

 

犬のいみじく鳴く声のすれば
犬がたいそう鳴く声がするので

 

何ぞの犬の かく久しう鳴くにかあらむ と聞くに
どのような犬が、こんなに長く鳴いているのだろうと思い、聞いてみると

 

よろずの犬 とぶらい見に行く
たくさんの犬が、走って様子を見に行く

 

御厠人(みかわやうど)なる者 走り来て
お手洗いの掃除人という者が、走って来て

 

「あないみじ 犬を蔵人(くらうど)二人して打ちたまう 死ぬべし
「まあ大変、犬を蔵人の二人が叩いています、死んでしまうでしょう

 

犬を流させたまいけるが 帰り参りたるとて てう(懲う)じまたう」と言う
犬を追放されましたが、帰って来たというので、懲らしめているのです」と言う

 

心憂(う)の事や 翁まろなり
かわいそうなこと、翁まろである

 

「忠隆、実房(さねふさ) なんど打つ」と言えば
「忠隆と実房などが、叩いている」と言うので

 

制しにやるほどに かろうじて鳴き止み
制止させようと人を遣わしたところ、ようやく鳴き止んだ

 

「死にければ 陣の外(と)に引き捨てつ」と言えば
「死んでしまったので、警備の詰め所の外に引っ張って捨ててしまった」と言う

 

あわれがりなどする夕つかた
みなが不憫がっている夕方

 

いじみげに腫れ あさましげなる犬の
ひどく腫れ上がり、見るに耐えない犬が

 

わびしげなるが わななき歩りけば
気力を失った様子で、ぶるぶる震えて歩きまわっている

 

「翁まろか この頃かかる犬やは 歩りく」など言うに
「翁まろかしら、でもこの頃こうした犬が歩き回っているはずはないし」など言って

 

「翁まろ」と言えど 聞きも入れず
「翁まろ」と呼ぶが、犬は聞こうとしない

 

「それ」とも言い 「あらず」とも 口々申せば
「翁まろに間違いない」とか、「いや違う」とも、口々に申すので

 

「右近ぞ 見知りたる 呼べ」とて 召せば 参りたり
皇后・定子さまが「右近(※)なら、見ればわかるであろう、呼びなさい」とお呼びになれば、右近が参上した

※帝つきの女房で、才媛とされるが詳細は不明

 

「これは翁まろか」と見せさせたまう(※)
皇后・定子さまが「この犬は翁まろか」と、お見せあそばすと

※ここも「させたまう」と最高の敬語が使われていることから、主語は皇后・定子

 

「似て侍れど これはゆゆしげにこそ侍るめれ
右近は「似ておりますようですが、これはひどい様子でございます

 

また『翁まろか』とだに言えば 喜びて まうで来るものを
また『翁まろか』とさえ言えば、喜んで、やって来るのですが

 

呼べど寄り来ず あらぬなめり
呼べども寄ってきません、違うようでございます

 

それは『打ち殺して捨てはべりぬ』とこそ申しつれ
翁まろは『打ち叩いて殺して捨ててしまいました』と、はっきり申しておりました

 

二人して打たむには 侍りなむや」となど申せば
2人で叩けば、生きてはおりますまい」などと申し上げれば

 

心憂(う)がらせたまう
皇后・定子さまは、心を憂いなされる

 

 

枕草子・第7段 上に候う御猫は その2に続く↓>

 

 

【おまけ】

この段の出来事は1000年3月の頃と言われています。一条天皇は21歳、同じ年の2月に中宮だった定子は、藤原道隆の娘、彰子が中宮になったことで、皇后の地位に就きます。本来、「中宮」は皇后・皇太后太皇太后の「三后」の総称でしたが、一条天皇の頃は天皇の妃という位置づけになっていました。

なんとしても娘の彰子を中宮にしたい道長の意向を受け、中宮から皇后を切り離す策を考えたのが、この段にも名前が記されている藤原行成と言われています。こうして一人の天皇中宮と皇后が並ぶという前例のない「二后並立」の状態が生まれました。

そして、この年の12月には皇后・定子は第2子出産の場で崩御清少納言も宮中仕えを辞去したとされています。清少納言は宮中を去ってからも10年近くに渡って枕草子を書き続け、この段もその頃に書かれたものと思われます。

この段を読んだ当時の貴族たちは、誰もが皇后・定子の兄、藤原伊周(これちか)を思い出したことでしょう。伊周は父であった最高権力者、関白・藤原道隆亡き後、藤原道長と後継者争いの最中、女性を巡るいざこざから先の帝である花山法皇に矢を放つという不祥事を起こし、一条天皇の厳命により大宰府へ追放されます。

大宰府へ向かう途中、伊周は密かに逃亡し京へ舞い戻りますが、再び逮捕されます。この段に登場する翁まろという犬は伊周と重なります。この段は全体を通して枕草子にしては珍しく、しんみりした調子で物語が進むのは、そのためかもしれません。