よもやま茶飯事

心に浮かんだことを書き綴ります

枕草子・第10段 今内裏の東をば

 

今内裏(いまだいり)の東をば 北の陣と言う
仮の皇居である一条大宮院(※)の東を、北の陣という

※999年に内裏が焼失、翌1000年に新しく内裏が完成するまでの間、一条大宮院が仮の皇居になります

 

梨の木のはるかに高きを
梨の木がとても高いのを

 

「いく尋(ひろ)あらむ」など言う
「どのくらいの高さがあるのかしら」などと話していると

 

権中将(ごんのちゅうじょう)
権力中将・源成信(※)さまが

※ 第62代村上天皇の孫で、藤原道長の妻の甥にあたる関係で道長の養子になる。「照る中将」と呼ばれたイケメン貴公子。中宮・定子の後宮にも頻繁に出入りし、清少納言とも親しい関係でした。

源成信はこの話の後の1001年2月、定子の悲運の死を受け、同じく貴公子だった藤原重家(右大臣・藤原顕光の長男)と一緒に出家します。知らせを聞いた道長と顕光は急遽、出家を思いとどまらせようと三井寺へ駆けつけるものの間に合わず、天を仰いだと伝えられています。

 

「元よりうち切りて定澄 僧都(じょうちょう そうず)の枝扇(えだおうぎ)にせばや」と給いしを
「根元から切って僧都(※1)の定澄(※2)の扇の枝(骨)にしたいものだ」と、おっしゃたのだが

※1 僧都は僧侶の役職の一つ。僧正の下
※2 後に奈良の興福寺の長官になる僧。たいへん背の高い人だったので、源成信は高い梨の木を伐って、扇の枝にすればお似合いだと言っています。

 

山階寺別当になりて
僧都の定澄が奈良の興福寺の長官に就任されて(※)

※ 定澄が長官に就任したのは1000年3月17日とされています。

 

よろこび申しの日 近衛司にて
帝にお祝いを申し述べる日に、近衛府の役人に先導され

 

この君の出(い)で給えるに
源成信さまも出かけていらっしゃったとき

 

高き屐子(けいし)をさえ履きたれば ゆゆしう高し
僧の定澄は足の高い下駄を履いていて、とんでもなく背が高い

 

出(い)でぬる後(のち)に
定澄が退出した後に

 

「など その枝扇(えだおうぎ)をば 持たせたまわぬ」と言えば
私が源成信さまに「どうして、あの扇の枝を定澄にお持たせにならなかったのですか」と言えば

 

「物忘れせぬ」と笑いたまう
「あなたは物忘れしない人だね」とお笑いになる

 

「定澄僧都に袿(うちき)なし
「背の高い定澄僧都には、裾の長い袿も長くはなく

 

すくせ君に衵(あこめ)なし」と 言いけむ人こそおかしけれ
背の低い「すくせ君」(不詳)には、丈の短い衵も短くない」と、言う人がいたこともおかしかった

 

<三巻本・枕草子 第10段 了>

 

 

【おまけ】

とても背が高い定澄 僧都(じょうちょうそうず)には、高い梨の木を伐って作った扇がお似合いだろうと語った源成信の話を清少納言は憶えていました。

後日、定澄の長官就任祝いの席に、それでなくても背の高いこの僧がさらに高下駄を履いて現れ、またまた、そこに源成信が居合わせたものですから、清少納言はついからかってみたくなったのでしょう。

清少納言枕草子において、自らと源成信のような貴公子とのやり取りを描くことで、定子後宮がいかに魅力的であったかを後々にまで伝えようとしています。

 

【おまけのおまけ】

この物語の1000年は清少納言が仕えた定子の最晩年にあたります。2月には長女の脩子内親王と昨年11月に生まれたばかりの長男・敦康親王を連れて一条院に入り、誕生祝いの百日(ももか)の儀が行われました。そして3月末まで一条天皇と家族一堂が揃って過ごされています。この頃の帝と定子の様子は第47段「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて」に描かれています。

僧・定澄が長官に就任にした3月10日は、定子は一条院に滞在しており、清少納言も一緒にいて、そこで源成信とこうした会話を交わしていたのでしょう。楽しそうに話をしていた二人もまさか、この先に悲しい出来事に見舞われるとは思いもしなかったことでしょう。この段は定子が亡くなってから、清少納言がありし日を思い出しながら書いたと思われます。