よもやま茶飯事

心に浮かんだことを書き綴ります

枕草子・第21段 清涼殿の丑寅の隅の 第2回

のどかな春の日、宮中には帝である一条天皇、后である中宮・定子とその兄、藤原伊周という「中の関白家」の主だったメンバーが顔を揃えています。

 

帝が昼の食事を済まされ、戻ってこられたのを見計らって、中宮・定子はそばに控える女房たちにある課題を与えます。まだ新人の女房だった清少納言は、見たこともないような眼前の光景にすっかり舞い上がっているようです。

第1回はこちら

 

第21段 清涼殿の丑寅の隅の (2/4)

陪膳(はいぜん)つかうまつる人の
帝の食事の給仕をおおせつかる殿上人が

 

おのこどもなど 召すほどもなく 渡らせたまいぬ
ご膳を下げる男の人たちなどを、お召しになるかならないうちに、帝はこちらへお越しあそばされてしまった

 

「御硯の墨すれ」と仰せらるるに
中宮さまが「硯の墨を摺りなさい」と仰せになるが

 

目は空にて ただおはしますをのみ 見たてまつれば
私の視線は上の空で、ただ帝のおいであそばすご様子だけを、拝していたので

 

ほとど 継ぎ目も離ちつべし
あやうく、墨をはさんでいる継ぎ目も離してしまいそうになる

 

白き色紙(しきし) 押したたみて
中宮さまは、白く染めた色紙を押し畳んで

 

「これに ただ今覚えむ古きこと一つづ書け」と仰せらるる
「これに、いま思いつく古の歌を一つずつお書きなさい」と仰せになる

 

外(と)へ居たまえるに 「これはいかが」と申せば
私が外に座っておられる中宮様の兄、伊周(これちか)さまに、「これはいかがいたしましょう」と色紙を差し出して、申し上げると

 

「とう書きて参らせたまえ おのこは言(こと)加えさぶらふべきにもあらず」とて 差し入れたまえり
「早く書いて差し上げなさい。男は口出しすべきではありません」として、差し出した色紙を御簾に差し入れ、お返しになる

 

御硯取りおろして 「とくとく ただ思い回さで
中宮さまは硯をこちらへ取り降ろされ、「早く、早く、思案などせず

 

難波津(なにわず)も何も ふと覚えむことを」と 責めさせたまうに
難波津(※)でも何でも、ふと思いつくものをお書きなさい」と、お責めあそばすに

※「難波津に 咲くや木(こ)の花冬ごもり 今は春べと咲くや木の花」。古今和歌集の歌で、当時の手習いの歌とされた

 

などさは臆せしにか すべて面(おもて)さえ赤みてぞ 思い乱るるや
どうして、そんなに気後れしたのか、女房全員顔まで赤面して、思い乱れる

 

春の歌 花の心など さいふい言うも
春の歌、花の心などを、そうは言うものの

 

上﨟(じょうろう) 二つ三つばかり書きて 「これに」とあるに
上席の女房たちが、2つ、3つと歌を書いて、次は私に「これに(お書きなさい)」ということなので

 

『年経(ふ)れば 齢(よわい)は老いぬしかはあれど 花をし見れば物思いもなし』と言うことを
私は『年月が経って、年はとっているが、花を見ると物思い心配することもない』という古今和歌集に収められたの藤原良房さまの歌を

「君をし見れば」と書きなしたる 
「花をし見れば」の箇所を「君を見ていると」と書き換えているのを

 

御覧じ比べて 「ただこの心どもの ゆかしかりつるぞ」と仰せらるるついでに
中宮さまは比べてご覧になられ、「ただこうしてあなた方の機転を、知りたかったのですよ」と仰せになり、さらに

 

「円融院の御時に 『草子に歌一つ書け』と殿上人に仰せられければ
円融天皇(※1)の御代に、帝が『草子に歌を一つ書きなさい』と殿上人(※2)に、お命じあそばされると

※1 一条天皇の父。中宮・定子にとっては義父にあたる

※2 清涼殿に上ることを許された蔵人所の役人

 

いみじう書きにくう すまい申す人々ありけるに
はなはだ書きづらく、お断り申し上げる人々があったが

 

『さらにただ手の悪しさ良き 歌の折に合わざらむも知らじ』と仰せらるれば
帝が『少しも字の上手・下手や、歌が季節に合わないであろうのも構わないことにしよう』と仰せになったので

 

わびて皆書きける中に
困りきって、皆が書いた中に

 

ただ今の関白殿 三位中将と聞こえける時
今の関白・藤原道隆殿(※)が三位の中将と申し上げたころ

中宮・定子の父

 

『潮の満つ いつもの浦のいつもいつも 君をば深く思うはやわが(我)』
『潮の満ちて来る いつもの浦でいつもいつも 私は君を深く思う』

 

という歌の末(すえ)を 『頼むはやわが』と 書きたまえりけるをなむ
という歌(※1)の末尾を、『頼むやは我』(※2)と お書きになっていたものを

※1 出典不明
※2 『私はあなたを頼み奉る』と書き換えたことで、私(道隆)は円融院様を頼み奉るという歌になる

 

いみじう めでさせたまいける」など 仰せらるるにも
円融院様はたいそう、お褒めあそばされました」などと、中宮さまは仰せになるのに

 

すずろに汗あゆる 心地ぞする
私はやたらに冷や汗が滲み出る心地がする

 

年若からむ人 はた さもえ書くまじき事のさまにやなどぞ覚ゆる
年が若い人であれば、やはり書けそうもない事であったろうと思える

 

例 いとよく書く人も あじきなう 皆つつまれて
いつも上手く書く人も、どうしようもなく、皆遠慮して

 

書きけがしなどしたるあり
書き損じなどをしたのがあった

 

 

第1回はこちら

第3回に続く

 

 

【おまけ】

このお話の994年は中宮・定子は18歳で、一条天皇の后となって4年目ぐらいです。一条天皇は15歳、清少納言は推定で29歳と言われています。

 

中宮」とは、元々は律令制における「皇后」「皇太后」(帝の母)「太皇太后」(帝の祖母)の総称でした。その後、後醍醐天皇以降になると皇后の別称になり、一条天皇の頃には皇后と同格の天皇の后を指すようになります。

中宮・定子の後宮では、単に知識や教養があるだけでなく、それらを使っていかに当意即妙で、機知に富んだ受け答えができるかが重視されました。ここでも、定子は女房たちに、早く思いついた歌を詠みなさいとけしかけ、清少納言のとっさの対応ぶりを賞賛しています。

清少納言が宮中に女房として仕えることになったのも、第33段「小白川という所は」で描かれているような彼女の機転の利いたやりとりが貴族たちの間で評判になり、「おもしろいヤツがいる」ということで、誘いの声が掛かったのかもしれません。