よもやま茶飯事

心に浮かんだことを書き綴ります

枕草子・第21段 清涼殿の丑寅の隅の 第1回

この段の出来事は994年頃とされています。ちょうど清少納言が宮仕えを始めて1年経つかどうかという時期です。この時期、清少納言が仕えた中宮・定子の父、藤原道隆の「中の関白家」は全盛期を迎えつつあります。

 

この段はとても長いため、4回に分けてお届けします

 

第21段 清涼殿の丑寅の隅の (1/4)

清涼殿の丑寅(うしとら)の隅の 北の隔てなる御障子(みしょうじ)には
帝の御殿・清涼殿の東北の方角の隅の、北の隔ての襖障子には

 

荒海のかた 生きたる物どもの 恐ろしげなる
荒海の絵、生きている物どもの、恐ろしい様子の

 

手長足長(てなが・あしなが)などをぞ 書きたる
手長足長(※)などが、描かれている

※古代中国の想像上の生き物とされる

 

上の御局(つぼね)の戸 押し開けたれば
弘徽殿(こきでん)の上の御局(※)の戸を、押し開けていると

※清涼殿(下図⑤)に2つある皇后や女御たちの控えの間の一つ(下図⑪)。もう一つは「藤壺の上の御局」(下図③)

 

 

常に目に見ゆるを 憎みなどして笑う
(私たち女房は)手長足長の絵がいつも目に入るのを、嫌がったりして笑っている

 

高欄(こうらん)のもとに 青き瓶(かめ)の大きなるを据えて
欄干の元に、青磁の花瓶(※)の大きいものを据えて

青磁はこの当時の貴重品

 

桜のいみじう おもしろき枝の五尺ばかりなるを いと多く挿したれば
桜のとても晴れやかな、美しい枝の五尺ほどのものを、とてもたくさん花瓶に挿してあり

 

高欄(こうらん)の外まで 咲きこぼれたる昼方
欄干の外まで、桜が咲きこぼれている、そんなお昼ごろ

 

大納言殿 桜の直衣(なおし)の 少しなよらかなるに
大納言・藤原伊周(これちか)(※1)さまが、桜(※2)の平服が、少々しなやかになっていて

※1 藤原道隆の子息で、中宮・定子の兄
※2 直衣の色目のことで、表が白、裏が赤または紫

 

濃き紫の固紋(かたもん)の指貫(さしぬき) 白き御衣(おんぞ)ども
濃い紫の固紋(※)の袴に、直衣の下に何枚か重ねた白い服で

※模様を浮かせずに固く織った生地

 

上には濃き綾の いと鮮やかなるを 出(い)だして参りたまえるに
上着には濃い綾織物の、とても鮮やかなものを、外に出して参内していらっしゃる

 

上のこなたにおはしませば
帝がこちら(弘徽殿)へおいであそばせば

 

戸口の前なる細き板敷きに居たまいて 物など申したまう
藤原伊周さまは、上の御局の扉の前の細い板敷にお座りになられ、お話などを申しあげる

 

御簾(みす)の内に 女房 桜の唐衣(からぎぬ)ども
御簾の中には女房たちが、桜の礼服を

 

くつろかに 脱ぎ垂れて
ゆったりと、すべらせて着て

 

藤 山吹など 色々に好ましうて
藤(※1)や山吹(※2)の上着の、さまざまな色調が感じよく

※1 表が薄い紫、裏は青
※2 表が薄い朽葉色(赤みがかった黄色)、裏が黄色。春に着用した

 

あまた小半蔀(こ・はじとみ)の御簾(みす)よりも 押し出(い)でたるほど
たくさんの小さい半蔀(※)の御簾より、袖口を外へ押し出している頃に

※半蔀は下半分が格子で、上半分を外側へ上げるようにして開く戸(下図)

 

 

昼の御座(おまし)の方には 御膳(おもの)参る足音高し
清涼殿にある帝の昼の御座所の方では、食事をお持ちする蔵人たちの足音が高い

 

警蹕(けいひち)など 「おし」という声 聞こゆるも
警蹕(※1)などの、「お~し」という声(※2)が聞こえる

※1 先頭の先払いの者
※2 先導者が辺りの先払いをするためにかける声

 

うらうらと のどかなる日の景色など いみじうおかしきに
うらいらとした、のどかな一日の景色が、とてもすばらしく

 

果ての御盤(ごばん)取りたる蔵人(くらうど)参りて
最後の膳を持つ蔵人が、こちらへ参上して

 

御膳(おもの)奏すれば 中の戸より渡らせたまう
お食事の整ったことを申し上げれば、帝は藤壺の上の御局との間にある扉から昼の御座所へお渡りあそばされる

 

御供に大納言殿 御送りに参りたまいて
帝のお供として大納言・藤原伊周さまが、お送りに参上され

 

ありつる花のもとに 帰り居たまえり
例の桜の花の元に、帰って来て座られる

 

宮の御前の 御几帳押しやりて
中宮・定子さまは、御前の几帳(※)を押しやって

※間仕切りに使う調度品の一種

 

長押(なげし)のもとに 出(い)でさせたまえるなど 何となく ただめでたきを
敷居の元に、お出ましあそばされるご様子(※)などは、何がどうということなく、ひたすらすばらしく

※通常、この「長押のもと」は外に近く、顔や姿を見られる恐れがあるため、高貴な女性は近寄らない場所とされた。ここでの定子の振る舞いは大胆と言えるもので、その様子を清少納言は賞賛しています

 

候(さぶら)ふ人も 思うことなき心地するに
そばに控える人も、思うことのない満ち足りた心地がする

 

「月も日も変わりゆけども 久(ひさ)に経(ふ)る みむろの山の」といふ事を
(伊周さまが)「月日も変わりゆけども、久に経る 三諸の山の」(※)という歌を

※ 万葉集13巻3231。この後「離宮(とつみや)ところ」と続く。この歌は「中宮さまがひときわお栄えあそばすように」というお祝いの意味が込められている

 

いとゆるらかに 打ち出(い)だしたまえる いとおかしう覚ゆるにぞ
ゆったりと、朗詠されているのが、とてもすばらしく思えるにつけても

 

げに千歳(ちとせ)も あらまほしき御ありさまなるや
誠に、千年もこのままであってほしいと思える、中宮さまのご様子なのである

 

第2回に続く

 

 

【おまけ】

のどかな春の日、桜が咲き、着飾った女房たちが控える中、中宮・定子は夫である一条天皇、兄・藤原伊周と伴に一時を過ごされています。

その様子を清少納言は「げに千歳(ちとせ)も あらまほしき御ありさまなるや」(誠に千年もこのままであってほしいと思える、中宮さまのご様子なのである)と書き綴っています。

枕草子が現在も読み続けられていることにより、清少納言の願いは成就したとも言えそうです。