よもやま茶飯事

心に浮かんだことを書き綴ります

枕草子・第1段 春はあけぼの

枕草子・第1段 春はあけぼの

 

春はあけぼの
春はあけぼのである

 

やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて
だんだん白くなってゆく山の稜線は、少し明るくなり

 

紫だちたる雲の細く たなびきたる
赤紫色めいた雲が細く、たなびく

 

夏は夜
夏は夜に限る

 

月のころは さらなり
月がある頃は、言うまでもない

 

闇もなお 蛍の多く飛びちがいたる
月のない闇夜でも、ホタルが多く飛び交う様子

 

また ただ一つ二つなど
また、ただ一つ二つなど

 

ほのかに うち光りて行くもおかし
ほのかに、光って飛んでゆくのもおもしろい

 

雨などの降るも おかし
雨などが降るのも、趣がある

 

秋は夕暮れ
秋はなんといっても夕暮れ

 

夕日の差して 山の端(は) いと近うなりたるに
夕日が華やかに差して、山の稜線が、とても近くになる

 

烏(からす)の寝床へ行くとて 三つ四つ 二つ三つなど
カラスが寝床に行くとして、3つ4つ 2つ3つなど

 

飛び急ぐさえ あわれなり
飛んで行くのさえ、しみじみとした感じがする

 

まいて 雁(かり)などの連ねたるが
まして、雁などが連なって

 

いと小さく見ゆるは いとおかし
とても小さく見えるのは、とてもおもしろい

 

日入り果てて 風の音 虫の音など
日がすっかり暮れて、風の音、虫の音など

 

はた言うべきにあらず
やはり言う表しようもないほどよいものである

 

冬はつとめて
冬といえば早朝

 

雪の降りたるは 言うべきにもあらず
雪が降っている朝は、言うまでもない

 

霜などのいと白きも また さらでも いと寒きに
霜などがとても白く、また、霜が白いほどでなくても、とても寒い朝

 

火など急ぎ起こして 炭持て渡るも
火などを急いで起こして、炭火を持って廊下を渡るのも

 

いと つきづきし
とても、さまになっている

 

昼になりて ぬるく ゆるび もていけば
昼になって、寒気がおさまり、緩くなってゆくにつれ

 

火桶の火も 白き灰がちになりて わろし
火鉢の火も 白い灰になってゆくのは、さえないものである

 

<三巻本 枕草子・第1段 了>

 

【おまけ】

みずみずしい感覚で四季を切り取った一段は鮮烈です。さらに春と言えば「桜」が定番なのに、「春はあけぼの」であるとし、秋なら月という意表を突いて、「夏の夜」に月を持ってくるあたりは斬新です。

決まり事に捉われず、自分が良いと思ったことを良い表明するのは清少納言が仕えた中宮定子(ていし)が重視した姿勢です。定子は時に型破りな行動を見せ、側には機知に富む対応や機転の効いた受け答えの出来る女房たちを揃えていました。それらはいずれも、しきたりにとらわれない姿勢の表れと言えます。

定子の後宮はざっくばらんな雰囲気で、敷居が低いことから、多くの男性貴族たちがやって来たり、手紙を送ったりするなどして、女房たちとの軽妙なやり取りを楽しんでいました。

定子付きの女房たちにとって、和歌や漢詩の知識を持ち合わせているのは当然として、それを踏まえて、どんな風に振る舞うのか、どんな歌を詠むのかが大切でした。清少納言は自分らしさを出せる場所の存在により、天賦の才を開花させ、それが枕草子を生み出したと言えます。

 

【おまけのおまけ】

清少納言が「枕草子」を執筆するきっかけは、定子から、たくさんの上質な紙を受け取ったことです。定子の兄である内大臣藤原伊周(これちか)は、当時は貴重品だった紙を手に入れ、それを一条天皇中宮・定子に献上します。

定子はこの紙に何を書こうかと話されると、側にいた清少納言が「それは枕でしょう」と応えます。この「枕」が何を意味するのかははっきりしていませんが、定子は「では、あなたがお持ちなさい」といって紙は清少納言に下賜されます。伊周の役職から994年〜996年の間の出来事と思われます。

実際に清少納言が「枕草子」の執筆を始めたのは、996年の秋頃から翌年の春にかけてと思われます。この頃、清少納言は政治的に定子を敵視する藤原道長に通じていると周りの女房たちに疑われ、宮仕えを辞して、自宅で引きこもっていました。時間ができたので、執筆を始めたようです。この時、清少納言は30歳前後と言われています。

そして書かれた「枕草子」は、当然、定子に献上されます。つまり「枕草子」は定子に差し出され、読まれることを前提に書かれたことになります。

この時の定子の置かれた状況は過酷なものでした。後ろ盾となっていた父の関白、藤原道隆は亡くなり、母・貴子(きし)も他界。政治権力は道隆の弟・道長へ傾きつつある中、本来であれば道隆の後継者となるはずの兄の伊周と弟・隆家は女性を巡る誤解から花山(かざん)法皇に矢を放つといった暴力事件を起こし逮捕、政治的に失脚します。

この事件にショックを受けた定子は自ら髪を切り出家します。仏門に入ったことにより、神事が行えなくなった定子は宮中を退出するものの、実家は放火により焼失、焼け出されます。そうした不安の中で迎える初めての出産・・・

このため清少納言は定子の心をなごませるため、そして不安な気持ちを和らげるために執心したと思われます。「枕草子」が明るく、笑いに満ちているのはそのためです。しかし、その甲斐もなく、定子は1000年の12月に3人目の内親王を出産したその場で崩御します。24歳でした。

定子が亡くなった後も清少納言は「枕草子」を、およそ10年近くに渡って書き続けます。仕える主のいない清少納言が「枕草子」を書き続け、それが広く貴族社会で読まれ続けるには、執筆や配布を精神的・経済的に後押しする何らかの力や要請があったと思われます。また、時の政治権力者であった藤原道長とその側近の者たちの暗黙の了解もあったに違いありません。

清少納言が「枕草子」を書き続けることができた背後には、生前の定子に冷たく接した貴族たちの間に強い後悔や自責の念があったためと思われます。清少納言に対し、定子の人となりや後宮の様子を知らせよという依頼や要請があったのでしょう。それくらい、若き皇后の崩御は衝撃的な出来事でした。

定子が亡くなった後の「枕草子」は定子がいかに素晴らしい人であったか、定子後宮がどれほど洗練された文化の最先端にあったかを貴族社会に伝えるために書き続けられます。一見、清少納言自画自賛に思える内容も、教養のある女房たちが揃っていたことを示すことで、間接的に定子後宮のすばらしさを伝える効果を企図したものと言えます。また残された一人の親王と2人の内親王に、ありし日の母の姿を伝える目的もあったのでしょう。